おみやげ買いに行こう

1992.10.17

今日はインドネシア最後の日となるはずだ。明日の今ごろは、日本に帰っているんだなぁ、と思いつつ起床。
最後の日だから、またデパートに行ってみようかと思っていたが、のろのろと朝食を取ったりしていたら、もう9時を回ってしまった。
「じゃあ一人で行ってきたら?でも11時過ぎには戻ってきてよ」 
と、すずはらがいい加減な事を言うので怒る。新宿や吉祥寺じゃあるまいし、さっさと買い物して帰ってこられる訳がない。すずはらは午前中いっぱいここで休んで、チェックアウトした後で出かければいいと思っていたらしいが、予定通りにいくはずがない事は、もうわかっているはずなのに。
結局私たちは最後の買い物のために、荷物をチエックアウトしたホテルのフロントに預けて、デンパサールまででかけた。
デンパサールで一番新しくて大きなデパート、マタ・ハリデパートメントですずはらは切り替えの派手なGジャンを買い、私はもう一足靴を買う。このデパートの一番上にあるファーストフードコーナーは、屋台のインドネシアン料理を全部集めたような、大きなフードコーナーになっている。いつもながら生ジュースは絶品だし、作りたての食事もなかなかおいしい。
すずはらは大好きなメロンジュースを飲みながら言う。
「ぜひ夕食もここですませよう、安いし涼しいし、いいよ」
「うん、ティアラ・デワタのフードコーナーもいいけど、あそこ外にあるから暑いんだよね」
マタハリデパートの地下にはスーパーマーケットもあり、大きなブックショップも開店を控えているようだった。オープンまであと2、3日というところだろうか。開店していれば寄ったのに、残念だ。バリ島の写真集は各国から山のように出ているが、どこをとっても絵になるためか、どれもなかなか素敵な写真集にできあがる。
その後は良く観光で連れて行かれる、川沿いの地元マーケット、パサール・バドゥンへ行ってみる。もう昼下がりのマーケットには人もまばらで、おみやげ屋ぐらいにしか人はいない。コンクリート作りの大きなマーケットの2階には、中国人経営のおみやげ屋「HAWAI」がある。
なぜバリにハワイなのかわからないが、おみやげの種類も豊富だし、値段も定価でけっこうお安い。チープなものばかりではなく、高級品もそろっているところがクタなどのショップとは違うところかもしれない。
ハワイで買い物をしていたら、ハイティーンぐらいの女の子達が寄ってきて、私がちょっとだけインドネシア語ができるとわかると、色々とかまわれてしまった。まぁ、最終的には自分の家がやってる店で買い物をしてくれ、と言うらしいのだが、あまり良い物がないので、そのまま出てきてしまった。
それにしてもバリの物価の違いは、ちょっと考えられないほどだ。初めて来た時もそうだったが、一つの品に10倍の値段がつけられていても、ちっとも珍しくない。もちろん4倍5倍は当たり前、これは値切るとか値切らないとか言う段階じゃあないなぁ。
夕方にはまたマタハリへと戻り、夕食を済ませてホテルへ戻った。最後の荷物の詰め替えが、これでけっこう難しい。まだ出発するには早いからと、プールサイドのカフェでお茶をして、ボーイの男の子たちとなんとなくおしゃべりをする。 
「それじゃあさ、あのデワくんに会いにいかないのー?」
と、私が訊ねると。
「…だって、面倒くさいんだもん。薄情だと思うかもしれないけど、なんだか気がすすまないの。うまく言えないけどさ、手紙ぐらいにしといた方がいいような気がして」
私の不信感がすずはらにも乗り移ったのかもしれないが、その方がいいと思う。後でわかった事だが、彼とずっと一緒に行動していたJさんは、渚で絵の売り子をしている、彼の兄にずっとくどかれ続けていたらしい。しかし彼女が絶対になびいてはくれないとわかると、今度は二次元的にスリムな身体でならしているA子に、プロポーズしたと言う事だ。
良く旅行記とかで、とても大切な友人ができたとか、また遊びに行く知り合いができたとか書いてあるが、しょせん現実はこの程度。私たちのような女の回りに、わざわざ向こうから寄ってくる男なんてのは、とても身体めあてとは思えないし、たいていお金目当てなんじゃないか?。
日本でも外国でも、注意するのを忘れてはいけないと実感する。でも、こういう性格だから、悪い虫もつかない代わりに、浮いた話のひとっかけらもないんだよね、私ら。日本女性の価値を下げたりする事はありえ無い訳だけど、けっこうこういう性格の人って、女の人生としては不幸な方だと思うなぁ。


サティバサヌールコテージのお茶 二人で  RP 4,158 
ティアラデワタで買った靴 RP14,750 RP30,500

バリの空港、スカルノ・ハッタ空港は今年1992年のインドネシア観光年を記念して、新規オープンしたばかりだ。とんでもなく広くなり、豪華になった空港は、初めてバリに来たとき、ここが国際空港…?と立ちすくんだ小ささは無く、堂々たるものになっていた。これなら飛行機を降りたとたんに、南の楽園にやってきた!と言うムードに包まれることができるだろう。
去年までの空港内売店は、片手で数えられるほどだったのに、新しい空港には免税店を含め、とうてい人が行かないような場所にまで、ぎっしりと店がつまっている。まだちょっと熱があるらしいすずはらと一緒に、新しいショップを冷やかして歩いた。飛行機は定刻から一時間も遅れて出発だし、これぐらいしかやることがない。

空港で
1992.10.17

それからびゅんと飛んで、トランジット(乗換え)のためにジャカルタで飛行機から降ろされると、もう次の日になっていた。

「眠い…すっごーく眠い…」
毎晩9時や十時に就寝していた私に、この夜更かしはけっこうつらい。頭がぼーっとしてきて、とても立ってはいられない。待合い室にはまだそれほど人はいないし、席もかなり空いている。こうなったら多少行儀が悪くてもかまわない、ここの椅子で眠らせてもらおうと、椅子の上で横になった。
うとうとと眠っている横で、すずはらは日記を書いていたようだった。だが、乗り換えるはずの飛行機は、いつまでたっても準備が終わらない。そのうち眠ってしまったらしい。
周囲が次第に騒がしくなってきて、深い眠りから呼び起こされてみると、待合い室はずいぶん混み合っていた。あれからずいぶんたっているのに、何かトラブルでもあったのかと身体を起こし、よろよろとトイレに向かった。
待合い室全体がざわめいていたのと、ほとんど寝起きのもうろうとした状態だったので気付かなかったが、すぐ横にいたおたくっぽい三人グループたちが、目の前を通り過ぎた私を見て、すごいブスとかなんとか言って、誹謗したらしい。
むっとしたすずはらは彼らを睨みつけたと言う。しかし実はバリ島のチェックインカウンターに並んでいた彼らを見て、私たちもこっそりと「あの三人、おたく臭い」と思って観察していたのだ。なぜならば、リゾートとサーファーにビジネスマンがぎっしりのこの便の中で、彼らだけが妙に浮いていたからだ。
一人はSF文芸ファン風、あるいは十五年ぐらい前の少女マンガファン、といったムードのしっかりした感じのお姉さんに、いかにもおたくの典型ぽい、口ばっかり達者な男。彼はうんちくだけならまだいいが、さっきからずーっと様々な物に対して、批判と悪口ばかり並べ立てている。そして白いブラウスと、お母さんから譲ってもらった風のニットのカーディガンに、花がらのフレアースカート。この子が一番この待合い室で浮いているんだが…三つ折ソックスに茶色の革靴、手作り風の小さなポシェットをかけた化粧っ気のないトロそうな女の子が、彼らの間でずーっとおどおどするか、感心するかしている。気が弱そうなその子がその場から離れると、彼らも彼女を少し持て余していたらしく、いきなり彼女の悪口を始めた。もしかしたら、彼らはあんまり仲良くないのか?
その後、男がトイレのチップに三千ルピアも渡した、と言うのを自慢しはじめたもので、しっかりした風の彼女がそれに意見を始めた。男は金が余ってたからだとか言っていたが、結局彼女に何だかんだと難癖をつけて泣かせてしまい、男は…。
…逃げた。
それっきり彼らは行動を別々に取る事に決めたらしく、それっきり三人組でいる所を見かけなかった。
そんなドラマがあったと言うのに、相変わらず飛行機の動きはない。もう三時を回りきってしまった頃、やっとインドネシア語の放送が入った。
「これはもしかして…」
『スラマット・パギ…』
「ひぃぃ、おはようございますだってー」
嫌な予感はその場で大当たりだった。放送は飛行機のトラブルと、ホテルの案内を始め、待合い室から空港のイミグレーションへ向かうようにと言っている。
「しょうがないなぁ…行こう」
あ、英語でも同じ事言ってるよ」
英語担当のすずはらが、放送を聞きながら言う。まぁ、一歩か二歩の違いだけど、インドネシア語習ったおかげで、早めに行動が取れて良かった。
ところが、せっかく早めに行ったイミグレーションが大混乱に陥っていた。一度出国してしまった私たちは、もう一度入国するわけではないので、イミグレーションにパスポートを預けなければならないのだが、命より大事なパスポートを、そうそう身体から離せるものかと、怒った中年のツアー御一行様が一番前で頑張っていて、通してくれないのだ。
「パスポートなんか預けたら、売られちまうぞ。日本人のパスポートは高く売れるんだ」
「とにかく責任者を出せ、責任者を」
「JALなら信用できるが、GAなんか信用できん」
添乗員が一緒のツアーのはずだが、説明がされていなかったらしく、危険だから絶対にだめだの一点張り。
「アク・タウ・チュパット!」
背後からインドネシア語で、手続きはわかってるんだから、早くしろと怒鳴られても、言葉がわからないのでどうしようもない。
中年の男たちは、「後ろの皆さんだって、絶対に承知しないぞ、なぁ、そうだろう!」と強気だが、何度もバリに来ているらしいサーファーの女の子が、「こんなの良くある事じゃない、何してんノ」とぼやく。
我々はここで夜明かしをするゾ、と息巻く彼らを残し、やっと開いた隣の口を使って、他の乗客たちは次々にイミグレーションを抜ける。ホテルまではバスで送迎してくれるし、できればシャワーも浴びて少しでいいから横になりたい。エコノミークラスの客に用意されたホテルは、アンチョール・ドリームランドにあるホライズン・ホテルだった。うーん、縁があるなぁ。ちなみにファーストクラスの客はハイアットだったらしい。ゴージャス!
ホテルはさすがに一泊$140の事はある。トイレもバスも広々としていて、ベッドもセミダブルが二つ、おまけにこの部屋はシービューだ。朝の風景はきっときれいだろうなぁ。ちょっとロビーには遠いけれど、出発時間にはコールしてくれると言うし、朝食もつくらしいし、ちょっとでいいから寝てしまおうと、とにかく髪を洗ってふかふかのベッドに横になった。
うとうとしたのは二、三時間だけだったが、椅子で眠るよりはずっといい。想像していた通り、早朝の窓の外はとても美しかった。遠くの方にプロウスリブらしき島の影が見えている。 
「本当ならもう日本に到着しているはずの時間なのに、まだジャカルタかぁ」
「一日得したと思えばいいよね」
と、アクシデントをのんびりかまえて、朝食をとりに コーヒーショップへと降りて行く。隣の部屋に泊まっていたらしい子供が、出かけようとする私をつかまえて、恥ずかしそうにはしゃいでいた。
バイキングの食事はそこそこ美味しく、朝食の後はまた部屋に戻ってコールがあるのを待つ。インドネシア語のダッシュ4駆郎だのドラえもんだのを見ながら、ぼーっと時間をつぶしていたのだが、ちっとも呼び出しがない。おかしいなぁ、確か九時にはホテルを出なきゃいけないはずだと思って、フロントまで聞きに行くと。
「なにぃ!八時半にバスはホテルを出発したって?」
あわてて部屋に連絡、大騒ぎになる。フロントもあわててるぞ。
「ちょっとまってよ、じゃあ私たちはどうなんの?」
「とにかくロビーに降りてきて!」
ばたばたとフロントには降りてきたが、中国系のマネージャーらしきおっさんは、私にはミスは無いと言い張るばかり。
そりゃあ、あんたには無かろうが、何とかしてくれ、置いてかれたら日本に帰れないよ!とばかりにいい加減なインドネシア語と英語と日本語でぎゃあぎゃあ騒ぎ立てていると、ホテルがでっかい四輪駆動の車を仕立ててくれた。
この車がすごい加速に。素晴らしい運転テクニックを見せてくれ、絶対に観光客は通らないような悪路の近道をして、四十五分ぐらいかかる道を、たったの三十分で飛ばしてくれた。何しろ道の真ん中に、車が半分埋まるぐらいの大穴が開いてるんだから恐い。
「私のパスポートはどこ!ディマナ・パスポル・サヤ!」
あっちこっちをたらい回しで疾走した後、パスポートとはイミグレーションで無事に再会する。なんて騒ぎだろうか。
息を切らせながら出発ロビーに飛び込んでみると、飛行機はまだ出てはいなかった。見た事のある顔が、あちこちにあるのを確認して、ほっとする。出発時刻は01:30…でもあんまり当てにできないなぁ…。
私の予感は的中していた。すぐそばの洋書屋で、ちょっときれいな洋書を買って出てきたら、どうも回りに気配がない。あわてて待合い室へダッシュしてみると、案の定搭乗は始まっていたのだった。
もう、ジャカルタのングラ・ライ空港はトラブルだらけだ。しかし飛行機に乗ってしまえば、後は自宅に戻るだけ。これ以上のトラブルは無いだろう。すずはらすずはらの日記も、ここで終わっている。
しかし…私のインドネシア大病旅行記は、まだ終わらないのだ。

最終章 オチがつく

眠り足りなかった私たちは、残りの六時間のフライトをほとんど眠って過ごした。ジャカルタを飛び立ったのがだいたい真昼だったとすると、日本に帰り着いた頃には時差も含めて、もうとっぷりと日が暮れている事になる。誘導ライトがちかちかと輝く成田空港に、GAは無事に着陸し、やれやれとばかりに機内から出ると、待合い室に大勢の客が居た。
「もしかしてこの人たち、午前中にこのガルーダにのるはずだった人たちかな」
「そうかもしれない…」
いつもなら誰もいないはずの待合い室を覗くと、彼らは疲れきったような表情だった。これから乗ったとしても…向こうに到着するのは明日の朝、それからすぐに観光なんて、そんな苦行になるんじゃあんまりだよ。
私たちはいつもの出口から、いつもの検疫を通って黄色いカードをもらって、荷物を待つ。
「さぁ!荷物出てこいっ」
GAのターンテーブルがぐるぐる回り始め、トランクが少し姿を現した。
しかしそれっきり荷物の数は増えない。入国審査を終えた人々が、全員でターンテーブルを囲んだが、それでも出てこない。挙げ句の果てにターンが停止してしまった。
何が起きたんだろうかと、周囲がざわめく。
「今、何時?」
「とっくに九時過ぎてるよ」
香港最終便でも、こんなに遅くなったことはない。もしやこれは…と、嫌な予感に怯えていたら、ついに係員の登場。
「申し訳ありませんが、ガルーダの荷物室の扉が開かなくなりました」
どっと爆笑がわきあがる。もうこうなったら、笑うしかないね、さすがの日本人たちも。
でもその後がいまいちだったなー。荷物の届け先の提出書類を巡って、大人たちの争いはエスカレートし、怒鳴りあいになる一幕もあった。
じつはもう最終のエアバスは出発してしまっていて、残っているのはスカイライナーの急行だけだったのだ。下手をすれば、このまま成田に泊まらなければならなくなるところだった。それも、すでに到着しているので、ジャカルタみたいに航空会社が面倒を見てくれるわけでもない。自腹になってしまう。そ、それだけは勘弁して欲しい

結局トランクは3日後に自宅まで届けられ、事無きを得たが、最初から最後の最後まで、とんでもないトラブル続きだった。今まで無事に切り抜けてきた典型的なトラブルを、まるでドリルでも済ませるかのように経験した私たち。
経験を生かしてとは良く言うけど、もうこんな経験は二度としたくないよ、特にぎっくり腰は冗談じゃないほど痛くて情けないんだから。
といいつも、この旅では「盗難」にだけは遭わずにすんでいたのでした。まさかその後香港で、カバン切り裂きスリにやられるとは、想像もしていなかったこの日、この時。
でもね、旅行でのトラブルというものは、本当に取り返しのつかないモノ以外はみんな、人生の経験値になると思う。少なくとも日本での生活ですっかり根っこが生えた固定観念という奴を、海外旅行は練って練って柔らかくしてくれる。「私の知っている○○○と違う」という言い訳は、全く通じないのだもの。
日常生活に煮詰まった時、人生がつまらなくなったように思える時、仕事を続けるのが心底から嫌になった時、もうダメだと思わずに、ぜひともどこか知らない外国へ行って、自分の知らない事、想像もつかない生活を経験してみるといいと思う。
自分の居場所は、そして居心地の良い場所は、この足で探しに行かなければ見つからないのだ。